福岡県の中世山城・講演会
- カテゴリ:日記
- 2010/06/26 19:43:50
秀吉による九州国割りにより、スパッとその前・その後で城の形式の断絶があるとのこと。
従来型の城は、地形を利用して守りを固めるタイプ。
打って出ることは考慮されておらず、土塁や畝型の竪堀とかで周囲を囲い、攻めにくくしてもちこたえ、相手が引くのを待つ城。
そして、現在一般的に「城」と言われて思い浮かべる城は、織田豊臣型の城、いわゆる織豊型。
こちらの特徴は出入り口。
打って出るための出入り口が簡単に攻め入られないよう工夫されているとか。
いわゆる「虎口」。
織豊系の大名が最終的に勝ち残ったため、現在知られている標準的な城となった次第らしい。
元々福岡には有力大名がいない代わりに大勢の国衆が自分の在地を守り固めていて、大友・毛利・龍造寺と言った大名達の攻勢に対して付いたり離れたり。
大伴氏は、博多近辺を抑えるために立花山城を築いて戸次道雪を城主に。
隣接する三日月山に毛利が城砦群を建設し、激戦の地となったとか。
この立花山城、後に小早川秀秋がしばらく駐留したときに織豊系の改築を施したため、形式が入り交じっているが、これが朝鮮出兵の時の「倭城」の原型になっているらしい。
内容が面白くて、思わず会場即売会で売られていた「福岡県の城郭~戦国城郭を行く~」という本を買ってしまいました。
3,500円也。