杞憂は憂いなのだろうか?
- カテゴリ:人生
- 2010/06/15 23:37:36
この問いが杞憂であることはなんとなくわかる。
なぜならば、ハードウェア的な苦痛は伴わないからだ。
衣/食/住。
これらは、十分ではないかもしれないが不十分ではない。
無論、それは個々の判断によって異なるものではあるが、少なくとも現時点において不足はないと感じられる。
したがって、肉体的に苦痛という事柄はない。
しかし、それでも無数に憂いは存在する。
衣・食・住はある。
だが、純粋にそれだけだったらどうか?
腹が空けば、食し、
眠くなれば、眠り、
性欲が湧けば・・・
上記のいわゆる生物学的三大欲求(3番目はともかく)は、(自身と直接的に関係する存在に対するものから)孤立した状態でも維持することができる。
少なくとも、人間が居住可能な文明圏においては。
しかし、生命維持に意味はあるのだろうか?
意味は、相対的他者が存在しなければ、生じないのではないだろうか?
(少なくとも私には、自身から生に対する意味は見出せないでいる)
ただ無意味にエネルギーを消費し、それを補うために多数の屍を築き、摂取し、糞として排泄するこの肉体を維持する意味はどこにある?
なにも懼れることはないはずだ。
寒さも、飢えも、今はない。
なのに、なぜ、満たされない?
満たされているはずなのに。
これは杞憂だ。
しかし、憂いではある。
コメントありがとうございますw
欲求、欲とはおそらくヒトもまた生物である以上、生物学的な欲求は生じるでしょうね。
しかし、人間はその生物学的な欲求とは別の欲、行動を起こします。
例えば、自身にとっては不利益であっても他人の手助けとなる慈善的行動、その欲など。
この杞憂もまた、そういった人間的性質の裏返しとも思うところ。
>スィドリームさん。
コメントありがとうございますw
多分、この憂い(心配)とは、思考(時間不干渉な情報=無限)と肉体の生物学的な時間(時間干渉的な情報=有限)との差、ギャップのせめぎ合いだと思ったり。
おそらく、この思惟形式は、自然分離した状態なら生じないとも思うところ。
肉体と精神の衝突(?)なのかもww
Re:Re:コメ に参りました^^
うん、うん、恐れとか 不安のような ”感情”って
確かに 一瞬一瞬の心の反応であって、
それ単体では 時間的属性はない気がしますね。
”憂い”
広辞苑では、①嘆き訴えること、愁訴②悲しみ。嘆き。心配。・・・
となっています。
では、ここでの”憂い”とは?
”生命維持に意味を見いだせないこと”
”物理的満足があっても、満たされない感覚を持っていること”
でしょうか。
意味を見いだせない状態、満たされない感覚、
その不安や悲しみが、これから先も続いていくだろうという
漠然とした、悲嘆や絶望感を 心が捉えている状態ですね。
本来、一瞬のニューロンの発火であるはずの”感情”が
”これから先も続くのであろうか”という
思考のループの中に捉えられたとき、
それは時間的連続性を持ったもの = ”憂い”
となるのではないかしら・・・?
そして、
”これから先も続くのであろうか”と言う問いが
現実では無意味である 無駄な思考であると分かりつつも
”憂い”が存在するということに
自己矛盾のようなものを感じてしまうと・・
そういった解釈ではいかがかしら^^
人の欲が尽きることはないですね。
コメントありがとうございますw
「妄想」ってのは杞憂のことなんでしょうか?
恐れや不安はあるけれど、時間的な属性では無い気がします。
そもそもこの杞憂に対して時間が意味を持たないように感じなので。
時間とは水晶やセシウムの波動や秒針であって、天体や機械の周期でしかなく、時間を時間たらしめているのもまた我々自身の概念であって現象の形式でしかないのではないでしょうか?
したがって観念や概念などの認識は時制的連続性を考慮しなければ意味をなさないのでは?
(眠る前の私と起きた後私を同じものとして認識させるものはなんなのか?みたいな。普段気にはしないけどほんとに同じかどうかはわかったものではないのでは?)
因果律とするか否かの問題ではありますけれど。
たしかに全ては私の妄想であるかもしれません。
それ故「杞憂」と憂いを表現してみたりしてみたところもあったりw
どうとでも取れる言葉のあやなのかもしれませんが・・・
>舟酔さん
いつもコメントありがとうございます^^
生命維持活動はしているけれども、私は人間ではないかも?
ハードウェアはホモサピエンスだけれども・・・ソフトウェアはM.O.E.inc.製:萌☆もっこすですww
もっと ステキな 心を みがいて生きることを
楽しんでください。
杞憂とは、まだ現実になっていない未来への不安。
起こるかどうかも分からない 未来の出来事への恐れ。
不安や恐れを持つことは、自然なことです。
でも、その観念に囚われてしまうと
それは妄想になってしまう。
妄想に囚われた心は、不自由で
だから満たされないのです。
不安や恐れを持ったときは
それは、自分の思考の癖が生み出した
観念に過ぎないということを 認識することです。
そうすれば、囚われずに済みますから^^
生きることの意味は
夜空に星座を見出すことに似ています。
ユングは、コンステレーション(星座をつくる)という言葉で
表現していますが。
人生における あまたの出来事や出会い・・
その一つ一つは
一見無秩序にちりばめられているようでいて
あるときふと見上げると(人生を振り返ると)
その中に 何か意味を持った形を見出すことがあるのです。
意味などないと思うような、些細な出来事や出会いが
その星座には不可欠な ひとつの星だったということに気づいたり
見出した星座から、人生の物語を読み解いたり・・・ね。
だから 何気ない一瞬一瞬の積み重ねにも
必ず意味を見出せるときがきます。
今は、つまらない意味のない人生のようでも
一日一日を大切にする価値はあるんですよ。