摩多羅神と牛祭り
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- 2009/02/01 22:49:53
大酒神社 おおさけじんじゃ
彌勒菩薩半跏思惟像で有名な広隆寺の右方、塀沿いを北東へ辿りますと、ひっそりとした小さな社があります。これが大酒神社です。『延喜式神名帳』に大酒神社(元名)大辟神社とあり、神階は正一位。大酒明神ともいわれ、広隆寺の伽藍神であり、広隆寺境内の桂宮院の傍にありました。
「辟」は開く(開墾、開拓する)事で、農耕殖産の神とされました。あるいは悪疫、悪霊を「避け」る為ともいわれ、社名起源は明らかではありません。さらに辟や避は闢の略字であるとして、「大闢」(ダビデの漢訳)から泰氏とユダヤは関係有りとする大胆な説まで出ています。現在当てられている酒は、秦氏の頭領、秦酒公(はたのさけのきみ)の名から取り、大酒と改めたといわれています。
大酒神社の祭礼として、十月十日の夜に行われる牛祭りがありますが、祭神は叡山の常行堂に秘祭されていた摩多羅神です。牛祭 牛祭の祭礼は、明治以前は旧暦九月十二日夜戌刻に行われていましたが、新暦に変わっては、一ヶ月遅れの十月十二日に、さらに近年に休日の十月十日に変わっています。九月十二日は一説に秦河勝の命日といわれています。明治の神仏分離で一時中断。明治二十年に復興しました。
『都名所圖會』では、広隆寺の僧侶五人が太刀を佩き、一人は摩多羅神として幣を捧げて牛に乗り、四人は前後を囲み、囃子方や松明持ちなどを従えて、西門から出て地域を巡ります。再び東門から境内へ戻り、祖師堂の前の壇上に登って、祭文を読みあげると説明しています。現在、周りの四人は赤鬼、青鬼の四天王とよばれ、各々が阿吽形になっています。
現在の祭文は、「摩多羅神」を「諸神等」、「大黒天」を「大穴牟遅之神」、「道祖神」を「猿田彦神」に改めて、甚だしい卑猥な句を削られています。摩多羅神と眷属の面は祭の当夜、悪疫除災の守りとして境内は販売しています。その昔は厄を逃れると言って、祭文を読み終わって堂内へ飛び込む摩多羅神と四天王を群集が追って、その面を取り上げたといいます。
祭祀の起源には色々な説があります。長和年間(一〇一二~一七)、恵心僧都源信が夢告を得て広隆寺に詣で、極楽浄土の無量寿仏を目の当たりにし、源信は喜びそのままに弥陀三尊を彫刻。その年の九月十二日から声名念仏会を修し、摩多羅神を念仏守護のため勧請して祀りました。法会修行の後、風流(歌舞、囃子)を興行したのが起こりといいます。この風流が中古以来、この地で行われていた国家安穏、五穀豊穣、悪疫退散を祈る素朴な農民の祭礼と習合して、今に伝えられたものなのでしょう。また、慈覚大師円仁が摩多羅神を叡山、赤山、太秦の三地に祀ったのが始めとも言われます。あるいは、この祭りは聖徳太子が始めたとか、その祭文は弘法大師あるいは源信が草したと伝えています。祭神が摩多羅神とされたのは、大酒神社と桂宮院(太子堂)の関係、聖徳太子と泰河勝の関係からも説明付けされています。桂宮院は八角堂ともよばれ、阿弥陀如来他三体を安置し、聖徳太子が念仏を誦した所といわれます。すなわち念仏修行の道場であり、その後ろ戸に位置する大酒神社に念仏守護の摩多羅神が祭祀されたわけです。
大酒神社
祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公
京都市右京区太秦蜂岡町32