陰陽道概説1
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- 2010/02/26 21:31:33
陰陽道とは
古代中国で派生した陰陽五行説を基礎として、森羅万象を五行(木火土金水)の相互関係で読み解く思想体系が、六世紀に朝鮮半島を経由して日本に入った。
陰陽五行説とは前三世紀(中国・春秋戦国時代)に起こった学術思想の一つで、陰陽説と五行説が結びついたもの。天文暦数に通じ、それをもとに天体の運行によって起こる現象と人間生活の関係を説く。
すなわち、自然に起こる事象と社会の現象とを陰陽二元の相反と相互依存によって説明するのが陰陽説で、万物の変化を木火土金水の五要素の相 生(そうじょう)・相剋(そうこく)(相 勝そうしょう)によって説明するのが五行説である。
天文・暦法・占術(易)等の学術から、 政(まつりごと) による祥瑞(しょうずい)・災異といった政治思想、呪術・祭祀までも含むものが陰陽道として日本で独自に発展していった。陰陽道という名称は日本固有のものである。
陰陽道は、当時の日本には無かった最先端の技術として、朝廷で重視されるところとなり、天武天皇は七世紀に陰陽道を管轄する役所として陰陽寮を設置、その技術と技術者(陰陽師)は国家に管理された。宮廷陰陽師の誕生である。
陰陽道は律令体制により国家に独占・管理されるところとなり、陰陽寮の職掌は陰陽道・暦道・天文道・漏刻(水時計による時刻管理)となる。
陰陽師は元々占術の技術者であったはずが、占いの結果に対する対処から、後に祓え等の祭祀行為も行うようになり、次第に宗教家のように見られていく。
しかしその一方で、官僚としての宮廷陰陽師に対抗する形で在野に居た民間陰陽師があった。播磨国(兵庫県)の蘆屋道満に代表されるような、民間の陰陽師も陰陽寮とは別の流れで勢力を持っていた。
陰陽師が歴史上、最も活躍したのは平安時代中葉で、賀茂忠行・保憲(かものただゆき・やすのり)、安倍晴明の活動が諸書に記録され、賀茂・安倍二氏は陰陽道宗家としてその名を伝説と伝統の上に残す。
中世、賀茂家は勘解由小路家(かでのこうじ)に、安倍家は土御門家(つちみかど)に名を改めたが、賀茂家の正統は途中絶えて土御門家の独占体制となり、ついには近世の諸国陰陽師支配にまで至った。それは土御門家とは関係のない宗教者・芸能者をも組織し、統制しようとしたものである。
陰陽師は元々宗教的な意味合いを持っていた訳では無くて、本来は技術者的な存在だったんですね…!
詳しいですねぇ・・・☆