ダニーボーイに耳をふさいで
- カテゴリ:恋愛
- 2010/02/12 11:12:36
「最後の手を振る雨の十字路
震える背中見送ったとき、いつもきみが歌ってたあの歌が聞こえてきた」
本業はギタリストなのに、そこいらのシンガーなんぞよりよほど歌のうまい悠介が、古い歌を口ずさんでいる。
「いるはずのないきみの声が、ふたり生きた日を呼び起こす
すがるようにからみつく、ダニーボーイに耳をふさいで」
抱えたギターが哀愁を帯びたメロディを奏で、ぶっきらぼうな低い声がセンチメンタルな歌詞をつむぐ。悠介は知っているのだろうか。野枝はいつ言っただろう。
「この歌、好きだな」
「こんな古い歌、よく知ってるな」
「司さんだって、この歌がつくられたころはまだ生まれたか生まれないか、ってところじゃないの?」
「生まれてはいたんじゃないかな。いや、生まれてないか。どっちにしたって、たいして流行りもしなかった歌だよ」
「そうなのよね。でも、なぜか心に残ってるの」
「俺はこれでもミュージシャンだから、日本の歌でもむこうの歌でも詳しいつもりだけど」
「そりゃそうね。私もこの歌、好きなの」
どこでふたりでこの歌を聴いたのだったか。悠介はその場にいただろうか。
「こら、なんでそんな歌、うたうんだよ」
「んん?」
手を止めた悠介が、険悪になっている司を見た。
「ふと歌いたくなったから歌ってるだけだ。悪いか」
いつものように灯りを消して、いつものようにドアを閉ざして、きみとの昨日に鍵をおろした、つめたい、あの日。悠介の声が耳を打つ。
学生時代につきあっていた女と再会し、再び心が燃え上がった。彼女は小樽住まいの硝子工芸家の卵で、東京で暮らす司とは当然遠距離恋愛になった。よくある話しかもしれない。悠介にしても、彼の恋人は仕事でドイツ暮らしをしている。
「でもなぁ、俺は耐えられないんだよ。おまえもおまえの彼女も強い。俺の彼女も強いけど俺が駄目なんだ」
「そんなら東京へ連れてきて、結婚しちまえばいいだろ」
「いつも言ってるじゃないか。ロッカーは結婚なんかしちゃいけないんだ。所帯じみたくないんだよ、俺は」
「……勝手にしろ」
「勝手にするさ」
そんな会話を悠介としたのは、あれはいつだっただろうか。
遠い日なのかついこの間なのか、ギタリストの悠介とベーシストの司と、他の仲間たちもともにバンドを結成したとき、悠介が言い出した。
「口はばったいようだけど、俺たちの音楽で若い奴らに魔法をかける。そんなつもりでこのバンド名はどうだ? 「グラブダブドリブ」、ガリバー旅行記に出てくる魔法使いの島の名前だよ」
あれから何年たつ? グラブダブドリブは押しも押されもせぬスーパーロックバンドの地位に登りつめたのだが、司の心は寒い。きみとの昨日に鍵をおろした、つめたいあの日、を引きずりっぱなしだ。
あの日、悠介がさりげなく尋ね、司もさりげなく答えた。今から思えばあれが鍵をおろした日だったのだ。
「小樽に行ったのか」
「いいや、札幌で遊んできた」
「そうか」
決着をつけるのが怖かったのかもしれない。野枝とはっきり話すつもりで休暇に北海道へ足を向けたのだが、小樽まではたどりつけなかった。宙ぶらりんのまま終わったのか。悠介の歌ううたとシチュエーションはちがうけれど、司の想いのうちの刺が胸を刺す。終わったのはまちがいない。野枝は連絡してこなくなったし、司からも電話すらしなくなってしまった。
「いつもきみが歌ってたうた、か」
呟いて、悠介は今度は「ダニーボーイ」を歌いはじめた。
「ダニーボーイはよく知らないけど、こんなだったかな」
怪しい英語で野枝も歌ってくれた。悠介の流暢な発音、達者な歌と比較すれば下手くそとも言えたが、司の耳にはずっと心地よかった。
「プロの前で歌うなんて、恥ずかしいことしちゃった」
「俺は歌のプロじゃないからいいよ。もっと歌って」
「やあよ」
そんな会話はあきらかに遠い日の追憶だ。
耳をふさいでやろうかと、悠介の歌を聴きながら思う。耳に持っていった手に触れたのは、揺れるピアス。はずしてみたら最悪なことに、野枝の最後のプレゼントになった紫のピアスだった。司は片方だけのピアスを、窓を開けて外へ投げた。
「人んちの窓からものを捨てるな」
「ほっとけ」
無意識で耳につけてきた彼女の贈り物のピアスを、意識して捨てた。これで本当に終わったのかもしれない。
「この歌、次のライブでやろうか」
「どっちを?」
「両方」
「勝手にしろ」
「勝手にするよ」
どこまでもイヤミで性格のねじまがった奴だと、司は悠介に八つ当たりしたくなる。野枝が好きだと言った歌だから口にしているのか。実のところは知らないが。
もしもそうだとしたら、案外悠介は、傷心の司をなぐさめてくれているつもりなのかもしれない。ミュージシャンにはなににつけても音楽だろ、と言いたいのかもしれない。なぐさめてなんかいらねえよ、と強がって、司は窓を閉めた。
もちろん、いつものフィクションです。