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盗月Blog——島村抱月TextData——


■近代文藝之研究|研究|藝術と實生活の…(21)

■近代文藝之研究|研究|藝術と實生活の界に横たはる一線|五 (5)

併しながら是れではまだ至極と見られない。少なくとも吾人にはまだ此の上が考へられる。第一之れを觀者讀者の側に移して考へた時、他人の自己表現が何の爲め我れに價値を生ずるか。また作者の側から言つても、單に自己を表現さへすれば、果たしてそれが藝術として滿足せられやうか。自己表現は自己表現だが、表現して藝術を成すときの自己には、普通の自己と何か違つた所がありはせぬか。自己の内容に二樣が無い以上、素材は勿論普通の自己であるが、而もなほ、其の上に何等かの別境が開けて居りはしないか。即ち單なる自己表現以上、作者觀者の兩面に通じて、もう一段明白な目的觀念が展開すべきでは無いか。吾人は是れがあると信ずる。若し「藝術の爲の藝術」が小乘觀なら、「自己の爲の藝術」はまだ權大乘の域に止まる。眞の大乘觀は更に一展轉した所に見出だされる。



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*註1:併しながら
原本ではこの文頭は前ページの文末より改行なしでつづいている。
「併」の正字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/shikashi.jpg

*註2:觀者讀者の側・作者の側・作者觀者
「者」の正字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/mono.jpg

*註3:普通の自己・兩面に通じて
「通」の旧字体。「シンニョウ」は「二点シンニョウ」。

*註4:違つた所
「違」の旧字体。「シンニョウ」は「二点シンニョウ」。
「所」の旧字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/tokoro.jpg

*註5:自己の内容
「内」の旧字体。「冂(=エンガマエ)」+「入」。

*註6:何等かの別境
「境」の正字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/kyou_sakai.jpg

*註7:更に一展轉した所
「更」の旧字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/sara.jpg
「所」の旧字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/tokoro.jpg

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■抱月『近代文藝之研究』を註記なしに通しで読みたいかたは、こちらをどうぞ。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/kbk_tobira.html

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2010/02/10 23:49
訪問ありです~☆
 
そうなんですか!!
どこで検索をするのですか?

すてぷプレ~♪
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2010/02/10 19:53
げるぞるさん、ご丁寧にありがとうございます!
本当にいろいろと考えてしまっております。
また、ご報告させていただきますね^^
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2010/02/10 19:25
●みるくるさん【その2】:
> いろんなことを詫びながら、これからどう生きていくか。
> 本当にゆっくり時間をかけて、自分を見つめ直したいです^^
> 後悔しないように、命あるうちに^^って、大袈裟ですが^^;

「命あるうちに」という感覚は、とてもすごい(鋭く重い)感覚だと思います。
確かに、本当は誰にだって「明日」は約束されているわけではないのですが、誰もそれをリアルに感じることができません(僕もです)。
宗教心や宗教観は抜きにしても、1千kmを越えるお遍路を1カ月以上(かかるはず)歩き通しながら、ココロの整理や、人生への思いをめぐらすことは、きっとなんらかの、自分なりの悟りというか、ココロの決着が得られるような気がします。
万が一、得られなくても、得られないこともまた大切な発見でもあるわけで、その感のさまざまな想念の軌跡と記憶は、その後のとても大切なココロの糧になるはずです。

僕は思うのですが、もしいま、みるくるさんが、本当にお遍路さんに出ることが可能な環境にあるのでしたら、それこそ思い立ったのが吉日だと思います。ぜひ、チャレンジしてみてください。
(結婚したり、家庭を持ったりしては、なかなかできません。少ない情報しか持ち合わせていませんが、いまの、みるくるさんですと、確かにお遍路さんに出るには、恵まれたよい環境だいう気もします)

もしお遍路さんに出られるのでしたら、なるたけ歩いてみてほしいと思います。それも、ぶっつづけとはいわないまでも(可能性ならこれが一番いいのですが)、数日間とか1週間とか、まとめて歩く期間もとれるようにスケジュールを組んでほしいと思います。
歩くときの脳は、たぶん普段とは相当ちがう活動のしかたをしているはずで、これが必ずやココロにさまざまな好影響を与え、思いを深め、透明化してくれるように思うからです。

みるくるさんを取り巻く状況はもちろん、みるくるさんのこともよくわからないままに書いてしまいました。
なにか多少なりとも参考になるところがあれば幸いですが、しかしこれは僕自身への確認メモということにして、ここに記録しておきます。(^_^;
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2010/02/10 19:25
●みるくるさん【その1】:
お遍路さんは、僕も子どもの頃に聞いた話とかがメインで、ぜんぜんまともな知識はありませんが、お遍路さんは、空海(弘法大師=真言宗開祖)が修業した個所を巡ることなので、元々は空海を慕い、しのび、空海の業績・境地に近づかんとするところからはじまったお坊さんの修業ルートだったのだと思います。
(司馬遼太郎さんの『空海の風景』、記憶は曖昧ながら、足摺岬だか室戸岬の岩穴の奥で宗教的開眼に到るシーンが思い出されます)

その空海の偉業・能力にすがったり、あやかろうというところから、庶民(特に難病や病苦にある人)も奇蹟を願い、奇蹟がダメでも少しでも解脱の境地に近づき、心の安寧を得られれば、とお遍路に出るようになったんだと思いますが、僕が子どもの頃に聞いた話では、お遍路の途中で行き倒れてしまう人も少なくなく、そういう人を地元の人はホトケ樣として、手厚く葬り、供養するのだと聞き、なんだか恐ろしげで、お遍路とはそんな死をも覚悟して向かうものなのだな、と厳粛なものも感じていました。

それがいつの間にやら“お遍路ツアー”とかで、バスやタクシーで札所を観光地めぐりするような話も見聞きするようになり、そういう人たちと一緒にお遍路さんするのはちょっとイヤだな、と思うようになりました。

ただ僕も加齢とともに物分かりがよくなりましたので(^_^;、バスやタクシーで札所めぐりするのもありかな、と思っています。
そしてたとえ、宗教心とは別のところでお遍路さんをしているにしても、その動機というものは、それぞれの人にとっては決して軽いものではないだろうし、お遍路ツアーをすることで、その人なりのココロの整理や、思いの決着がつけられるのなら、確かにそれも弘法大師サマの御利益だと思うようになりました。

でも僕にとっては、お遍路さんは最終兵器的な位置づけなので、これまでの後悔や贖罪は、これから生きて行く上で、1つ1つ、そのつどそのつど、心を込めて果たしてゆけば可能ではないか、と思って生きています(つもり)。
もしお遍路さんに出るとしたら、“行き倒れの死をも覚悟”の子どもの頃のイメージを大切にして、すでに自分の人生の限界とか終わりが見えたときに、やり残したことのあれやこれやのココロや思いの整理(懺悔や贖罪も含まれます)に、向かうこともあるかもしれない、とぼんやり考えたりしています。
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2010/02/10 15:41
ここに書きます^^
伝言板だと、たくさんになってしまうので^^;(←既に遅しですが・・・)

思いや気持ちの整理をつけるために、巡るんですよね。
うちは浄土宗です^^
あっ!お遍路さんに宗派って関係ありますか?

いろんなことを詫びながら、これからどう生きていくか。
本当にゆっくり時間をかけて、自分を見つめ直したいです^^
後悔しないように、命あるうちに^^って、大袈裟ですが^^;



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